「子供をAV女優にしないために」がテーマのスペースになぜ私が憤ったか? をまとめてみました

はじめに

2023年9月8日にアカウント名・Gさんが、「どうして最近AV女優に若い子が流れやすくなっているのか、どうしたらそうならずに済むのか」というテーマでX(旧:ツイッター)上にてスペースを開催しました。
ちなみに正式なタイトルは「AV女優に流れやすくなっているという事実とその中での子どもの育て方」です。
このスペースが公の場で差別行為を行うことなのかどうかという論争がX上でありましたので、今回まとめてみたいと思います。

なお、「AV女優に流れやすくなっているという事実とその中での子どもの育て方」というスペースを知ったのは、開催のまさに3分前でした。「おっと、こんなスペースがあるのか。どんな話をするのかわからないけれど、これってスペースという公の場でやっていいことなのか?」という疑問がわき、ほぼ脊椎反射で参加のボタンを押し、リスナーとして参加しました。
その段階でだいぶイラっとしていたことを先に白状しておきます。文章も全体を通して、感情が先に立ってしまいまとまりがないのですが、敢えて、この状態で公開をしたいと思います。

この文章を読む上での注意点が2点あります。

1、このエッセイは、AV女優や性行為を伴う職業に対する差別を問題化する目的で公開しているため、本文にはこれらに対する差別的な表現が含まれます。読み進める際はこの点に留意してください。
2、このスペースを開催した個人を批判するためのものではなく、このテーマでスペースが開かれ、スペース主催者の意見に同意した人が少なからずいたという点に対し、問題提起をしたいという考えで書いています。そのため、記事中の登場人物は、すべて匿名といたしました。

スペースが開催された経緯

さて、このスペースが開催されたことの発端は、2つあります。まず、Tさんという有名アカウントが下記のポストをしたこと。

それから、Gさんが、Tさんと下記のようなのやりとりがあり、それが炎上状態となっていたこと。

これらの投稿で私が気になったのは、

「お嬢さんがAV女優として活動し始めて始めて自分ごととして捉えられそうでしょうか?彼女はその後なんの後ろめたさもなく人生送れますかね?お父さんとしては娘のえげつないセックス見て、活躍してるな~!ってなりますか。」

「職業の貴賤の話はしていません、貴方が挙げられたものは必要不可欠です。AV女優をその一つに混ぜないでください、全く性質が違います。
娘がパパ活するのは許せませんがAV女優になれば世界中の人に見られることとなり二度と普通の道は歩めませんのでそちらの方が嫌です」

の2点でした。

この文章の裏には、「AV女優として活動と書いているように職業として認めていない。世の中に必要ではない」「セックスを見せる仕事は〇〇である」(〇〇には恥である、蔑んでいいこと、卑しいことなどが入るのではないかと思いますが、私の想像なので定かではありません)という意識があるのだろうと私は受け止めました。

ここで、前提として私の過去を披露しておきます。
私は、性行為を伴う動画(AVなのかイマイチわからない)にかつてバイト感覚で数本出たことがありますし、夫も探せばFANZAに上がっている作品に出演しています(その昔は、エロ本に動画がついていた時代があり、そこに男優として夫は出演していた時期があるのです。これは10年以上も仕事としてやっていました)。
(余談ですが、私は素人感覚で、ごくわずかな目先のお金欲しさにアダルトコンテンツに10代の頃出演しました。そのため、自分が「AV女優」だと名乗ることは、仕事としてAV女優をしている人からすると失礼に当たると考えています。ですので、そのように名乗ることはありません。この部分の意識の問題は、主題がずれるのでここでは書きませんが、またいずれ詳しく書いてみたいです)

話は戻ります。
Gさんは「二度と普通の道は歩めません」と書いています。
普通の道というのが一体なんなのか私にはわかりませんが、私は様々な性の仕事やらアルバイトやらを体験した後、成人雑誌を主戦場とするライターになり、その後、仕事の場で夫と出会い結婚し、14年が経ちました。
子供を産み、主に雑誌やWEB媒体の制作の仕事をして、それなりに幸せに暮らしています。子どもをネグレクトしたり、日常的に殴ったり…ということはしていませんし、PTA活動もすれば、地域活動にも顔を出す、市井の民として暮らしているわけです。PTA活動や地域活動では、私が中山美里であるということを知っている人もいれば、知らない人もいます。
そのため、「二度と普通の道を歩めない」というのはGさんの「二度と普通の道を歩んでほしくない、二度と普通の道を歩ませてはならない」という願いであり、意地悪さなのだと受け止めました。
その意地悪さこそ、「〇〇な人は蔑んでいい」「〇〇な人は人として劣ったことをしたのだから平等じゃなくていい」「〇〇な人は普通じゃないから排除して然るべきだ」etc. という差別の根本なのだと私は考えています。Gさんの場合、この〇〇に「AV女優」「売春をした女性」「風俗嬢」「性の仕事に関わる人」などが入るのでしょう。

「娘がAV女優になりたい」と言った時に男親と女親で考え方は異なるのか?

さて、スペースです。

開催の冒頭の挨拶の際に、Gさんの方から、「リスナーさんの中に中山さんという方がいらっしゃって(中略)、私と違うご意見を持っていらっしゃるかなと思うので、もしご意見とかあったら後半以降、コメント頂けたらおもしろいかなと思ってます」と私を指名されました。「え? 私、発言していいの?」という気持ちでしたが、主催者からお誘いがかかったのですから、後半になったら頃良いタイミングでスピーカーに上がろうかなと思いながら、聞いていました。

スタートしてまもなく、男性の参加者が指名されスピーカーに上がると、Gさんは、「娘がAV女優になりたいと言われたらどうするか?」という問いを投げかけました。
その方が、「否定しづらい。一定の年齢以上は本人の人生だ」というような返答をすると、「男性は娘からAV女優になりたいと言われた時に許容する部分があるけれど、女親は今みたいなコメントができる人はいない」と、突然の男女間での意識の違い論を持ち出してきました。

「男性は〜〜」「女性は〜〜」と性別によって考え方が異なると決めつけるのは、それこそがまず偏見であり、「男女」ではなく「個人だろ」と、私のイラっとポイントに1点入ってしまいました。

また、このテーマの場合、「男性は視聴者としてお世話になっているから、否定できないのだ」との意見を持つ人がいます。
しかし、AVの視聴者は男性ばかりでなく女性もいます。FANZA REPORT 2018では、約3割が女性ユーザーであるという調査結果が出ています。また、株式会社サブロクが実施した、「女性が抱く成人向けコンテンツに対するイメージ調査」(全国20才以上の女性1,000名を対象。2021年8月実施)では、対象者の33.4%が性的な内容を含む成人向けコンテンツに関心があると回答しています。そのうち30.8%がAVを定期的に閲覧していると答えています。
(※「FANZA REPORT 2018」はリンクができませんでしたので、ググってみてください)

つまり、AVを閲覧しているのは男性の方が多いものの、女性も少なくないということです。
これらの調査から、「男性は視聴者としてお世話になっているから否定できない」という意見は、そもそもバイアスに基づいていることがわかります。
とはいえ、「AVを見ているから否定できないんだ」との意見を女性が述べると、AVを見ている男性は意見を言いにくくなります。つまり、AVを見たことがあるという男性の口を塞がせるのにピッタリな主張でもあるのです。
ですから、ジェンダーバイアスであるだけでなく、卑怯な主張であると私は好みません。

次に、別の女性がスピーカーに登ってきました。
その方は「(娘がAV女優になると言われたら)無理ですね」と、バッサリ即答。その後、Gさんとその女性はタッグを組むかのように、持論を展開していきます。
「率直にいうと、AV女優って気持ち悪いって思っちゃうんですよ。だって気持ち悪いでしょ。この感覚が、すごい個人的で感情的なものなのかと言われたら、そうではない。(中略)気持ち悪いって感覚が、ある程度普通なんじゃないかなと思います」と言い放ち、「この感覚に賛同していただける方、パチパチ(拍手)してもらえますか?」とリスナーに賛同を求めました。

公であるスペースという場でのAV女優の公開リンチです。

私は、このスペースにsienteメンバーであり現役AV女優の月島さんが入ってきていたのを見ていました。彼女が聞いたら、どんな気持ちになるでしょう。他にも現役AV女優や元AV女優が入っていたかもしれません。その人たちが、リアルでこれを聞いていたら、どんな気持ちになるでしょう。
感情が落ち着いたと思いましたが、再度、スペースを聴きながらこれを書いていて、心臓がドキドキとしてきてしまったくらい、この一連の会話には感情が揺さぶられました。これはイラっとポイントを超えています。大きな悲しみと怒りにスイッチが入った瞬間だったともいえるでしょう。

AVは職業ではないのか? 世の中で必要とされていないのか?

Gさんは、「3Kと呼ばれる職業を卑しいものとして扱うことはありえない。自分たちも必ずお世話になっているし、そういう職業がないと社会が回らない」と言い、そして「けれども、AV女優は全く性質が違う」と言いました。
理由として「不快感を与えてしまう。生理的に受け付けないというのは自然なことである。そもそも不特定多数の前で裸になることは、公然わいせつ罪である」と挙げました。
(ちなみに、公然わいせつ罪の定義については、話が大きくずれることになるので、今回は書かないことにします)

ここで、AVという産業についての私の考えを簡単に書きたいと思います。AVは、日本では3,000億円規模とされ、大きな需要があるものです。
映画やアニメなどの娯楽作品はなくても生きてはいけますが、余暇を楽しみ生きていく際にあると良いものです。AVは、性欲という人の持つ欲望を満たしつつ、娯楽的な側面もあります。そういった意味では、ニーズが高いものであると私は考えています。
性欲の大きさ、性的指向、娯楽作品に対する嗜好等は人それぞれで、多様なニーズに答えようとAVのクリエイターや出演者が重ねている努力を見ると、決して「AVがなくても社会が回る」とは言えません。

子育ての中で「AV女優をそばに置きたくない」という言葉の根っこにあるもの

「子供を育てる上で、(AV女優を)そばに置きたくない」という発言もありました。
一体それはどういうことなのでしょうか。

これを現実生活と照らし合わせて考えていくと、「同じ学校にAV女優をしている母親がいたら、その人は排除したい」「AV女優は、子供と接する環境にいてはいけない。つまり、同じマンションに住んだり、習い事で接点があったりしては嫌だ」ということになるでしょう。生きていく上で、非常に制限が出てきてしまいます。
もっと言えば、「AV女優になったことのある女性は、母になるべきでない」という本音が心の底にあるのでしょう。でなければ、この言葉は言い放てません。

Gさんは「生理的に受け付けないというのは自然なことだという感覚は世間一般のもの」という持論を持っています。しかし、その世間一般(多数派)の感覚でもって、マイノリティであるAV女優を「気持ち悪い存在で、生理的に受け付けないことは普通である。だからそばに置かない。つまり排除しよう」と貶め、社会の除け者にして良いのでしょうか。生きづらさを押し付けて良いのでしょうか。

では、これをAV女優ではなく、他のマイノリティに変えてみたらどうでしょうか。LGBTQ、障碍者、元受刑者……色々ありますので、ぜひ、一度、他の存在に置き換えてみてください。

また、これを他の職業に変えてみたらどうでしょうか。Gさんは、いわゆる3Kと呼ばれる職業を引き合いに出していましたので、私の方でもそれらの仕事を列挙します。鳶職人、清掃員、介護士……なんでもいいです。ぜひ、一度、他の職業に置き換えてみてください。


なぜ、他のマイノリティ、他の職業だとおかしいと感じることが、AV女優だと許されるのでしょうか。

AV女優はかわいそうで不幸な人であるというレッテル

「同じ学校に通っていた人がAVに出ちゃったりすることもあったけれど、自殺したとか暗い側面を見た」という「AV女優=かわいそうな人、不幸な人」の持論の展開もありました。それは「AV女優になる人は、悲惨な背景をもつ“ならざるを得ない人たち”なのだ」というレッテルで、そのレッテルを貼ることで「自分たちとは違うのだ」と納得して安心したいのでしょう。それこそが排除であると考えます。

性を切り売りした人とそうではない人を分けたいという考え

Gさんは「性の切り売りを一度するともう元に戻せない不可逆的なものだ」と述べました。これは、AV女優だけでなく、風俗嬢なども含めた言葉となるでしょう。ここから先は、AV女優と風俗嬢という2つの立場の女性が批判されているということで話を進めていきます。

●恵まれた育ちの人と不幸な育ちの人を区分けしたい人

Gさんのこの発言の後、他のスピーカーが上がり、「貧困、親から愛されなかった、教育に問題のある人がAV女優を選びがちである。恵まれた育ちの人がAV女優に憧れちゃうのが問題だ。それは大人が阻止しなければならない」と持論を述べました。
上記のとっちらかった意見をまとめると下記になります。

「貧困や親の愛情不足でAV女優になるのは仕方ないけれど、愛情をかけられ教育も受けた恵まれた女性がAV女優になるのは問題だ」

非常にひどい持論です。どんなにひどいことを言っているか、自覚しているのでしょうか。
今度は持論とまとめずに分解して解説してみたいと思います。

前者については、「AV女優という仕事は、いわば悲惨な幼少期を送ってきた人が就き、その人は、そういう生い立ちだから卑しい仕事について然るべきだ」ということです。
つまり、その根っこには、Gさんやスピーカーに上がった方が、「私たちのように恵まれて生きてきた人とは別世界の人だし~。そういう人は卑しい仕事についておけばいいんじゃね?」と考えていることに他なりません。
つまり人としてのゾーニングが必要だと考えているわけです。人としてのゾーニングが進んでいくと隔離政策になります。

かたや、後者は「愛情をかけられ、高い教育を受けた私たちの社会からはAV女優を出したくない」という意味になります。自分たちのエリアと蔑んでいる人たちのエリアが交わることがあってはならないという意識があるのでしょう。これは、選民思想があるからこそ、出てくる言葉です。

●水面下と水面上に分けるべきだと考える人

次に上がった、他のスピーカーは、「自分の夫はAV監督である」と言い、けれども「AV女優や風俗嬢が市民権を持つのは反対だ、水面下で賤しい仕事をしているという自覚を持つべきだ」と言いました。その方がいうには、「風俗嬢と泥棒は世界で1番古い職業で、本来は成り立つものではないものが成り立っている」そうなのです。

性の仕事は水面下に潜るべき……ですか。水面上、水面下というゾーニングをすべきだということなのですね。
そして、風俗嬢と泥棒を同列に並べますか……。もはや、何をどう申し上げれば良いのか……という状態です。

これを同じ考えを持った仲間同士内でのおしゃべりとして、宅飲みなどでやるのならいいのです。
でも、話しているのは、Xのスペースという公の場なのです。

なぜ、公道のような場所で、街中のような場所で、差別発言を繰り広げ、AV女優や風俗嬢をこんなにもフルボッコにするのか?
なぜ、こんなひどい暴力を振るっているというのに、それをわかってもらえないのか、本当に全く意味がわかりませんでした。

そして、AV女優や風俗嬢を否定するということは、その周りにいる人たちの仕事をも否定することになります。AV女優や風俗嬢は、その人だけではその肩書を名乗れません。

AVという作品を作る人、AV女優をプロモーションする人がいて、作品を望むお客さんがいて、初めてAV女優になれます。

風俗店というお店があり、そのお店を切り盛りする人がいて、風俗嬢を求めるお客さんがいて、初めて風俗嬢になれます。

つまり、AV女優や風俗嬢を「気持ち悪い職業」「3Kのように必要な職業ではない(なくなって良い職業)」だということは、AVや風俗の産業全てを気持ち悪いと否定することになるわけです。

であるならば、その気持ち悪い産業は害悪だからなくなるべきだというくらいの強い信念があって初めて、AV女優や風俗嬢が職業ではない、いわゆる3Kのような仕事とは別であると言えるのだと私は考えます。「職業全体をぶっ潰してやる」くらいの覚悟がないなら、安易に首を突っ込むべきではない。

自分の生活にAVや風俗が関係ないのであれば、放っておけばいいんです。

ましてや、AV監督を夫に持つ女性は、「業界で1番多く作品を撮っている」と話していました。であるならば、その夫の収入によって、生活が成り立っている部分もあるはずです。専業主婦なら、その業界から得る収入がなければ、生活が成り立ちません。今の生活を失っても良いという覚悟の上で話しているのでしょうか。正直いうと、外資系ママさんよりも、私はこのAV女優を夫に持つという女性に対し、最も憤りを覚えました。

私がスペースで述べたこと

そして、そろそろ耐えきれなくなった私は、スピーカーになるというボタンをクリックしました。

だいぶ頭が沸騰していて、うまく話せなかったのは、未熟でしたとしか言いようがありません。脱線もしてしまいました。こんな自分にがっかりです。

私の方からは、「性の仕事に就くことが経歴として消すことができない不可逆的なものであるとされているのは、辞めた後に、差別や偏見があるために不可逆的になってしまっているのだ」ということをまず述べました。だからこそ、差別や偏見をなくしたいのだと。

また、その問題点を述べる過程では、自分に援助交際の過去があり、家族はそれを知っていることなどを伝えました。話をする上で、こちらの人生の情報開示をして、言説にどんな裏打ちがあるのかを説明しなければ、ずるいんじゃないかというのが私の根底にあります。
話したら、まあ、ちょっと絶句していた感じがありましたが…。

そして、「それって、一般的には非難されることですよね。それすら否定的に見られてるんですか?」と突っ込まれました。
「それ」が何を指しているのか、聞き忘れたことは私のミスです。

「それ」が援助交際であるならば、児童売春という犯罪なので、非難されるのかもしれません。けれども、児童性暴力の被害者として「可哀想な人だ」とされるのかもしれません。
それは、受け取り手がどう考えるかということですが、Gさんは「非難されることだ」と考えているのでしょう。しかし、非難されるような過去があったら、その後も一生ずっと非難され続けなければならないのでしょうか。辞めた後も、日陰の身で生きろというのとは、また別の話だと思うのです。
それにもし、私が日陰の存在として生き続けなければならないのなら、子供たちも同じように日陰の存在として生きていかなければならないのでしょうか。一体、どこでどう切り分けるのでしょうか。

「それ」が成人雑誌などセクシャルウェルネスの仕事で生計を立てていることを、子供たちが知っていることであるならば、親の職業を知らないという方が本来は不思議です。
しかし、実際のところ、AVや風俗などの仕事をしている人たちは、配偶者には知らせていても、子供や義両親等には教えていないケースが多々あります。それはアダルトの仕事が悪いと思っているからではありません。偏見や差別があるために、この仕事を伝えることでどんな反応があるのか、どんな影響があるのかわからないから伏せておくという判断をしているのです。「子供がイジメにあうかもしれない」「付き合いをしないと言われるかもしれない」「仕事を辞めなければ縁を切るなどと言われるかもしれない」そんな不安や恐れを抱いているのです。
そんな不安や恐れの中で生きているのは、まさに、「それって、一般的には非難されることですよね」という人がいて、どこにいるかわからないから、隠しておくことに他なりません。

性の仕事を仕事として認めたくないという差別の本音を認めたくないこと

その後、議論となったのが、「Gさんがプライベートゾーンを誰にも見せないでねと子供に教育している。だからプライベートゾーンを他人に晒す仕事は矛盾してしまう」という話題でした。
ここから先は、Gさんと私の対話で紹介します。

私「誰にも見せないでねと伝えたとしたら、極端な話、産婦人科で内診できなくなってしまいますよね」
Gさん「そこまでいったらそうです。でも、私は職業としてもう少し下に潜ってもいいんじゃないかなと」
私「なぜ、下に潜らなきゃいけないのかが、全くわからないです」
Gさん「職業差別はされるべきではないと思うものの、過剰にもてはやされていることが問題です」
私「もてはやされてないですよね? Gさんたち皆さんは、見下しているわけですから」
Gさん「下に見ている人と、もてはやす人がいます。本来であれば隠してバレないようにする仕事なのに、インフルエンサーになったりしてる」
私「(本来なら隠してバレないようにする仕事で、インフルエンサーになってはいけないと)誰がそう決めたんですか?」
Gさん「元々そういう感じ」
私「元々そういう感じって、誰が決めたんですか?」
Gさん「えっと、過去の人たちが」
私「どの人ですか?」
Gさん「今まで生きてきた過去の方々…」

Gさんの意見の展開が繋がっていないということは、会話なのでさておき。ここで私が思ったのは、「え? 職業差別することの正しさを過去の人に押し付けちゃうんだ」ということでしした。

いやいや、「AV女優という仕事を下に見て、こっそりバレないように仕事をして、日陰の存在で生きていけ」と思っているのは、Gさんでしょう。なのに、過去の人に発言の責任を押し付けて逃げるって卑怯じゃね? って、私は思いました。
Gさんが、「私は職業差別をする人なのです」と自らの感情を整理してくれれば、私もここまで追い詰めなかったと思います。

そして、この時に、私が抱いていたモヤモヤも解消されました。
職業差別をしている人が、公の場で差別的なスペースを開催する。その問題に、Gさんに気づいて欲しかっただけなのだなと。

そして、ご自身の生活にAVや風俗が関係ないのなら、放っておいて欲しいと思っているのだなと。
気づいた時には、スピーカーから降ろされていましたが。

人はどうしても感情に流され、偏見を持ち、差別をしてしまいます。私の中にも当然あります。
同じような考えを持つのに、GさんよりもAV監督を夫に持つ女性に対して強い嫌悪感情を持ってしまったのは、偏見が理由でしょう。
Gさんは、恵まれた環境で育った「上級国民」だから「下級国民」を踏みつけるんですねという決めつけや、守られて世間知らずのまま生きてこられた人だから分かってもらえなくて仕方ないという諦めもまた、私にある差別や偏見なのだとも思います。

残酷な社会になってほしくないという願い

そして、最後に1つ伝えたいことがあります。

議論の中でで、「貧困や親に愛されないなど、不幸な生い立ちの人がAV女優や風俗嬢になる傾向がある」という話題が出ていました。

生まれ育った環境というのは、本人に選択肢のないものです。抗おうと思って抗えるものではない。その結果、AV女優や風俗嬢といった性の職種を選んだということは、その人が持つ選択肢の中で最も良いと考えて出して答えだったのだと思います。

この抗いようのない原因の結果、差別され、賤業だからと身を潜めて生きろというのは、とても残酷なことではないでしょうか。

しかも、AV女優や風俗嬢という仕事を選んだら、その仕事をしたという経歴は消せず、不可逆だというのです。

子供時代の恵まれなさを甘んじて受け入れ、そしてそのまま性の仕事に就く大人になったら身を潜め、差別されながら日陰の存在として死んでいけということなのでしょうか。
太陽の日を浴びて、幸せに笑うことを望んではいけないのでしょうか。

そのような残酷なことを、私は言えない。

そして、そんな残酷な社会になってほしいとも思えません。

以上、取り留めのない長い文章となりましたが、一つの出来事として記事として残しておきたくまとめました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

(文:中山美里)

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